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「RENK」集会を妨害した朝鮮総連のその後

総連大阪関係者による襲撃風景、動画「朝鮮総連が関西大学の李英和教授を襲撃」より(https://onl.bz/AMp6DxK)

「RENK(救え! 北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク)」の集会を暴力的に妨害したことを受け、1994年4月25日、朝鮮総連大阪本部へ警察からの家宅捜索が行われた。


事件当時、総連中央勤務員の友人に聞いた話では、総連中央では次のような防衛体制強化が行われたという。以下、まとめてご紹介する。


総連大阪本部への強制捜査の翌日から、総連中央本部では当時6人体制だった夜間の宿直勤務を21人体制に変更して、厳重警備をする事となったのだとか。

しかし、1週間もすれば、厳重警備体制とは言いながら緊張感も薄れ、宿直をしながら幹部クラスの輩が中央本部内の各部屋でビールを飲み交わしていたのが現状であったという。

それも、その筈である。総連中央本部は表向きには、「RENK集会の妨害指示はしていない」としながらも、中央幹部達はこのような顛末になることを承知していたのだ。

当時、友人は「RENK妨害事件後の夜勤宿直勤務時に、中央本部の後輩職員が

『あの妨害事件は中央本部から大阪本部に指示を下しましたよ』

と話していた。ということは、総連中央幹部は、その後の展開(防衛強化など)まで予測して指示をしていたはずである。

総連中央の妨害指示によって、警察による大阪本部強制捜査事件に発展したおかげで、後に毎週3~4日も中央本部職員全員が交代で泊り込み勤務になるに至ったのだから、自ら首を絞めたようなものであり、酒でも飲まなければやってられない状況であったのだ。


集会妨害指示の批准決裁者で当時の責任副議長:許宗萬(現議長)は、一日たりとも泊り込み勤務などやる筈も無く、高みの見物を決め込み末端の苦労などお構いなしの対応であったのだとか。


泊り込み勤務が長期化するにつれ、職員達の気持ちもだらけ、宿直と称した「泊り込み缶ビール飲み会」にも飽きて来た頃、「21人での集団泊り込み勤務体制を解除すべき」などと、各部署から意見が出始めたそうだ。

そんな矢先、1994年6月6日には、国土法違反の容疑(学校法人「京都朝鮮学園」が無届けで学園建設用地を買収したとして、京都府警が、国土利用計画法違反容疑、後に捜査ミスと判明)で総連京都本部事務所に警察からの家宅捜索が入った。


叩けば、必ずホコリが出る総連側は、「次の標的は何処になるのか?!」と、相次ぐ家宅捜索にうんざりするとともに、 京都本部への家宅捜索が行われた結果、中央本部での21人体制での泊り込み勤務は7月末迄延長された。


「RENK集会への妨害指示」の最終決裁者=責任者である許宗萬責任副議長は、大阪への伝達役を押しつけた中央本部組織局某部長を一連の事件の犯人がごとく仕立て、「捜査のほとぼりが醒める迄、長期間自宅待機」を命じたという。

某部長は、自宅待機しながら、大型自動車免許を取得したりしながら出勤指示を待っていたという。約半年後に、某部長は職場復帰をしたが、許宗萬から理不尽な犯人役を背負わされたのにも関わらず、出世する事も無かったので、「大変御気の毒」なことである。

総連中央が発した「RENK」集会妨害指示は、総連大阪本部への家宅捜索に繋がるとともに、総連中央本部の警備強化へと発展していった。自ら起こした妨害行為で自らの首を絞めたようなものである。総連中央の指示は、朝鮮本国へのアピールの面が強く、末端組織の苦労など考えないものが多い。

1994年の「RENK集会妨害指示」などは、まさにその典型と言え、本国には「RENKの反朝鮮集会を妨害しました」とアピールできるが、その引き換えに総連大阪本部が家宅捜索されるなど、総連中央の指示に従う末端職員は泣かされてばかりである。

 次回、「RENK集会妨害事件」の後始末について考える

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