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チャイニーズドラゴンと朝鮮高校生

TBSニュース2022年10月17日付「チャイニーズドラゴン幹部の出所祝いでのトラブルか 池袋サンシャイン60の乱闘騒ぎ」(https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/180276?display=1)

先日、池袋の繁華街で起きた集団乱闘事件が世間をにぎわせた。池袋のフランス料理店に100人の参加者が集まりパーティーを開いていたところ、10人程度が殴り合いを始め、大ごとに発展していったという。この席に集まっていたのが悪名高き「チャイニーズドラゴン」であったため、世間の耳目を集めることとなった。


「チャイニーズドラゴン」とは、中国残留日本人孤児の親の日本移住に合わせて来日した子女が中心となって構成された不良グループから派生した集団で、中国朝鮮族や日本人らで構成されている。


「チャイニーズドラゴン」は怖い物知らずで、相手が日本のヤクザの幹部であっても、不満やいらだちを覚えることがあれば向かっていく血の気の多い気質があり、「心の時限爆弾を常時携帯している」とでも思わんばかりの恐ろしさがある。

1970年代~80年代までは「ケンカと言えば、国士舘高校VS朝鮮高校」との図式が印象強かった。

90年代頃に入り、国士舘高校及び朝鮮高校は部活に力を入れる様になったせいか、首都圏各地の繁華街での双方の集団乱闘も目立たなくなっていた。
そんな1980年代、「中国人残留孤児引揚問題」がお茶の間のニュースに頻繁に取り上げられるようになった。

第2次世界大戦後、中国・満州(現在の中国・東北地方の吉林省、黒竜江省、遼寧省)に居住した日本人の親兄弟が、終戦後に子供達を中国に残したまま命からがら日本に帰国してしまったため、中国に置き去りにされてしまった残留孤児が多数存在した。


残された孤児たちは、中国人によって育てられたり、当時の満州地区に居住した朝鮮人によって育てられ、後に朝鮮に移住した人も居たが、多くは当時の満州に残留していた。

1981年「残留孤児訪日調査団」が来日し、以降、「テレビで大々的に、孤児の日本名と失踪時の特徴などを読み上げられていた」ことを思い出す人もいるだろう。そうして日本で親族が見つかった人は、日本への帰還の道が開けるのだが、ここで思わぬ問題が浮上した。


突然、日中両政府が決めた事により、「顔も知らない産みの親が居る」、「君は日本に帰国しなければならない」、「君は何月何日に日本に帰国する事に決まった」などと残留孤児と認定された日本人は突如、日本で生活するよう言い渡されたのであった。  

残留孤児は、現実を呑み込めないまま日本に帰国し、突然マスコミの前で記者会見をさせられた。中には、中国語も話せない朝鮮族として育った者もおり、記者会見時には、朝鮮語で「この気持ちをなんて表現したら良いのか解りません」と朝鮮族訛りの朝鮮語で発言した者もいた。朝鮮語を理解できた筆者は、その場面を印象深く覚えている。

突如、慣れない日本に移住させられた残留孤児は、日本語が話せず、日本ですぐに仕事があるわけでもなく、中国より生活レベルが低下した人もいた。残留孤児の不満のはけ口は、彼らの子女への暴力となり、子女らも学校では日本人から「いじめ」を受けるなど不満を抱えることとなる。「いじめの打破」のため、暴力的手法でのし上がったのが「チャイニーズドランゴン」の前身集団(「残留孤児グループ」と仮称)であり、彼らは「都内の残留孤児子女を日本人の不当な『いじめ』から救う」との名目に自然発生的に集まり、暴力事件を展開していくこととなる。

当時のメンバーの一人に話を聞いたが、「暴力は重ねるごとに快感を生み、日本人を駆逐することもでき、大きなストレス発散となった。そのため、遠征を重ねるごとに、より凶暴になっていった」などと述べていた。

日本に帰国した残留孤児は、中国朝鮮族に育てられた人が多かった。満州国には多数の朝鮮人が居住していたのだから当然である。

朝鮮族に育てられた残留孤児の子女であっても、日本各地に存在した朝鮮学校に編入させることは日本政府や支援者の選択肢としては考えられていなかった。
今では、朝鮮学校に中国朝鮮族の学生も何人かは入学しているが、当時は朝鮮族の入学事例はなかった。

中国残留孤児の子女が学生時代を送った90年代、東京都内で「残留孤児グループ」と朝鮮高校生との集団乱闘事件が起きてしまった。朝鮮高校生は90年代に入り、少しは落ち着いてきた時代であったが、根は朝鮮高校生であり、キレれば乱闘する輩も少なくはない。

相手も朝鮮族に育てられた残留孤児の子女達で心に傷を負って生きてきた集団であり、同じ朝鮮民族から派生した存在だと言えども、朝鮮人はキレてケンカになったら例え同族同士であっても双方一歩も引かない。
結果、双方が何人ものケガ人を出す大乱闘となり、入院患者が出るまでの事案に発展する。

数日後、残留孤児グループが、朝鮮高校生のケガ人が入院していた病棟を見張り、報復攻撃を仕掛けるための機会を虎視眈々と狙っている事実を知った。その時、残留孤児グループの驚くべき執念を垣間見た。

当時、更なる事件に発展することを恐れ、東京朝鮮高校の男性教員が、生徒の入院先に夜勤当番で警備体制をしく事となった。

後に被害生徒の同級生から話を聞くと、「被害生徒は、残留孤児グループに刃物で切られた腕の傷跡を他人に見せようとはしなかった。生涯消えない深い傷跡を負ったのであろう」などと述べていた。

残留孤児グループから派生した「チャイニーズドラゴン」は、暴力の連鎖や生活レベルの向上により、90年代当時よりさらに凶暴になっている可能性が考えられる。そんな「チャイニーズドラゴン」が集まる酒宴で、一度、暴力が発生すると、今回の池袋の事件のように大暴動に発展し止められなくなるのであろう。

彼らも、日本と中国、両政府の政策に翻弄されたかわいそうな存在といえる。今後、世界で同規模の移民問題が発生する場合、「移民の将来的生活」を考える上でも「チャイニーズドラゴン」の存在は大きな人類の経験とも言える。

満州では、本来「五族協和」を標語として唱えていた筈だったのに、なぜ、歴史はこの様な不可解な展開に至ってしまうのか。満州国が唱えていた「五族協和」は一体何の為に唱えていたのだろうかと悩ましく思う。 

このまま、乱闘悲劇を繰り返していては、ラストエンペラー「愛新覚羅溥儀」は、はたして成仏されるのだろうか…。

中国残留日本人孤児達の筆舌し難い苦痛な日々は知る人ぞ知る事実ではある。しかし、逆境下でグレて反乱を起こすのが良いこととは思えず、後に這い上がる事こそが己に与えられた厳しい試練では無かったのかと考える。

マンガ「のらくろ」の主人公、のらくろ二等兵は最後には試練を乗り越えて這い上がった。勿論、のらくろ二等兵は大日本帝国陸軍の二等兵ではあったにしても。

マンガ「のらくろ」の時代背景は、満州国…。「五族協和」実現の日は、果たしていつ訪れるのだろうか。

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