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コザの街のお話し 激突

1973年5月20日。右手に皇居を、正面に国会議事堂を臨む交差点に、1台のオートバイが低いアイドリング音を響かせていた。梅雨入り前の東京は快晴。雲一つない空に「白亜の殿堂」の威容が映えた。
 信号が青に変わると、エンジンがうなりを上げた。ライダーは、フルスロットルで愛車の「ナナハン」を急発進させた。
 60、70。スピードメーターの針は回り続け、ついに時速80㌔にまで到達した。
 ノーブレーキで疾走するマシンはそのまま50メートル先の国会議事堂正門の鉄扉に激突。大破したオートバイとともにライダーも即死した|。
 ◇
 国家権力の象徴たる建物に突っ込んだライダーの名前は、上原安隆。26歳だった。
 警察は、現場の状況から「自殺」と断定した。沖縄出身の上原は、愛車と共に壮絶な最期を迎える2年前の1971年、本土の土を踏んでいた。
 上原はなぜ死んだのか|。沖縄に住む、上原の兄が2013年、地元紙「琉球新報」の取材を受けた際にこう語っている。
 「理由は分からないが、場所は国会。何かを訴えたかったのではないか」
 同紙によると、上原は沖縄県北西部の恩納村喜瀨武原(きせんばる)の出身。恩納岳の麓にあるのどかな集落だったが、沖縄戦終結後に沖縄を実効支配した米軍が周辺地域を接収し、米海兵隊基地「キャンプ・ハンセン」をつくった。
 朝鮮戦争にベトナム戦争。沖縄の基地は、米軍が間断なく続けた戦争の前線であり続け、上原の故郷では砲弾を使った訓練が繰り返された。
 「米軍は、県道を封鎖し、キャンプハンセンから恩納岳方面に向かって155ミリ砲の実弾砲撃演習を続けた。住民の頭ごしに砲弾を撃ち込む米軍の演習に対して、喜瀬武原の住民や支援団体が激しい反対運動を展開した」(地元住民)
 不条理な現実が目の前にある土地で生まれ育った上原は、地元の高校を卒業後、極東最大の米軍基地「嘉手納飛行場」の〝門前町〟であるコザ市に移り、米軍人が出入りするAサインバーでバーテンの職を得た。
 上原が、「基地の街」で日々の糧を得るようになっていた1970年12月、「コザ暴動」が勃発した。
 「米軍車両の事故が暴動の契機だった。日頃からの米軍の横暴に不満を募らせていた学生や活動家、Aサインバーの従業員らが集まり、米軍車両を横転させ、火を放った」
 当時、現場にいたコザの住民は当時をこう振り返った。
 群衆とともに騒動に加わった上原は、騒動から数日後、地元警察に米軍車両に放火した疑いで逮捕された。
 上原が本土に渡ったのは、釈放後の71年1月のことだったという。
 東京でタクシー運転手で働き、愛車も手にした。沖縄が本土復帰を果たすのは、上原が東京に移ってから1年後の1972年のことだった。そして、そのさらに1年後、沖縄の青年は短い生涯を終えた。地元紙の取材に応じた上原の兄の手元には今も上原が最期の時までかぶっていたヘルメットが遺されている。そこには激突時に刻まれた議事堂正門の鉄柵の痕跡が残っているという。
 自らの死をもって何を訴えたかったのか。
 今はもう、その痕跡を見ることでしか上原の思いを推しはかることはできない。

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