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1994年4月25日の忌まわしき思い出 朝鮮総連大阪本部家宅捜索

今から、28年前の1994年4月25日に朝鮮総連大阪府本部へ警察からの家宅捜索が行われたが、現代社会を生きる皆様はご存じだろうか。

今から30年ほど前の話になるが、4月25日という日でもあり、当時、朝鮮総連関係者らから聞いた話などをまとめてご紹介する。

4月25日に朝鮮総連大阪本部へ警察からの家宅捜索が行われた。この直前に、「RENK(救え! 北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク)」の集会があったが、この集会を総連大阪府本部傘下の専従職員達が妨害したとの容疑であった。

被疑者不詳のままでの家宅捜索であり、異例であったとも感じるが、余程の嫌疑があったのだろうと察する。

警察が大々的に家宅捜索に行ったのであるから、余程派手に集会を妨害したのであろうと察した。

集会時の妨害の様子を後に動画で見たが、あんなに大人数で押し寄せて「李英和(当時のRENKメンバー、関西大学教授)!李英和!」と叫ばれながら追い回されたら、誰だってビビるだろう。

日本ではバブル経済が崩壊し、在日朝鮮人社会にも不景気の影響があったが、1994年のこの頃はまだ「小泉訪朝」の前で朝鮮側の拉致問題も今ほど騒がれてはいなかった。

在日朝鮮人の中でも拉致問題の疑惑を感じていた人も居たが、朝鮮側は拉致も核兵器保有も認めていない頃であった為、現在よりも総連組織への結束は固く朝鮮信組も健在であり総連の活動資金も現在より豊かであった。

総連結成当時から、大阪地域は中央本部の意向に中々従わない地域として有名であったが、その大阪府本部の専従職員達が総連中央本部からの「集会妨害命令」に珍しく一致団結して暴動を起こしたのである。

同種の暴動事件が大阪で起きかけたことがある。それが、1972年の「金炳植事件」(総連の第1副議長・金炳植が、総連構成員を使い過激な工作などを展開していたが、金炳植が北朝鮮に強制送還され、悪事が明るみになった事件)である、その時には、過激路線を強行し続けていた当時の総連に対して、在日同胞達の怒りが爆発し、「クソ総連!金炳植出て来い」との勢いで大阪の在日朝鮮人社会で暴動が起きかけ、東京から派遣された在日朝鮮人が強制退避したほどだ。

「金炳植事件」では、在日社会が団結して暴力的な行動に繋がることは無かったが、全国の在日朝鮮人社会で総連中央の指導に対する反発が起こり、総連は指導のすべてを北朝鮮及び金日成に委ねていくこととなり、ますます、「総連は在日朝鮮人のための組織」ではなく「北朝鮮のための組織」へと変貌していくきっかけとなった。

そんな総連中央へ反発精神を持つ大阪の在日朝鮮人社会が、中央の指示に従い結束して暴力的に結実した事件が「RENK集会妨害事件」である。

次回、RENKの主張と総連の主張の違い、と暴動事件の顛末について紹介する

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